トラウマタクシー

 安藤は、タクシーがどうも苦手である。公共交通機関での移動が必要な場合、電
 車、バスを最優先に考え、それがダメなら徒歩、タクシーは最終選択肢となる。
 今の安藤はとても貧乏なので、小刻みに上がるメーターに耐えきれない、のかも
 しれない。運転手や先客のタバコの残り香がどうしようもなくイヤ、なのかもし
 れない。だけど、それだけではないのである。

 安藤の母は商売を営んでいた。幼かったころは、自宅と母の店舗が離れていた。
 自宅から登校し、下校後、母が店じまいするまで、店舗の裏の小部屋で過ごし
 た。閉店後、自宅に帰る母と安藤。その距離はちょうどタクシーの初乗りを超え
 るか超えないか。乗るには気兼ねだけど、歩くには遠すぎる。

 なるべく歩いて帰るようにしていたが、日暮れの早い冬の夜や、雨の続く日はど
 うしてもタクシーに乗りたくなる。だけど、やっとのことでタクシーをひろい
 「○○が丘まで」と行き先を告げると運転手の態度は豹変した。

 「そんな近くは行かんで!降りぃ!!」

 当時、こんな乗車拒否は日常茶飯事だったのである。おんなこどもで見くびられ
 ていたのかもしれない。

 でも、安藤と母は、もうタクシーに乗っているのである。運転手に行き先を告げ
 るのは、タクシーに乗ってからなのである。安藤が5歳の時に亭主を突然亡くし、
 自分の不安定な商売だけで安藤を養っていかなくてはならなかった母は、あのこ
 ろ殺気立っていたのかもしれない。運転手相手にひるむようなことはなかった。

 「もう乗ったんじぇけぇ行きんさいよ。絶対降りんけんね」
 「そんな近場いけるか。降りぃいうたら降りぃ!」
 「なに言うとるん。行きんさい」
 「なに言うとるんなら!ワリャー!!降りろ!!!」
 「もう乗っとるんじゃけえ、降りるわけないでしょ!」

 車という密室の修羅場である。安藤しまいには泣き出すほかないのである。

 「かぁちゃ〜ん、もうええよ〜歩いて帰ろうや〜〜」
 「バカ!黙っとりんさい。乗った以上は絶対運んでもらうんじゃけえね」
 「うぇ〜〜〜〜ん。こわいよ〜」

 雲助に負けてない母は後部座席に居座ってとうとうワンメーターだけ運ばせる。

 またあるときは、降りろ降りないで、キレた運転手がタクシーをUターン、目的
 とは逆の方向へ走り出す。

 「われの思う方へ行ってたまるか」
 「何バカなこと言うとるん、戻りんさい」
 「ワシはもう車庫にかえる」

 「かぁちゃ〜ん、もうええよ〜歩いて帰ろうや〜〜」
 「バカ!黙っとりんさい。はよう引き返しんさい」
 「うぇ〜〜〜〜ん。こわいよ〜こわいよ〜〜」

 こんなことがしょっちゅうだったのである。

 気持ちよく運んでくれる運転手さんもいた。しかし・・・

 当時、初乗りがいくらだったか忘れたけど、まぁ、400円だったとしよう。
 で、500円を出したところ。

 「お釣りはいらんよね」
 「はぁ?」
 「お釣りはいらんよね」
 「要りますよ」
 「お釣りはいらんよね」
 「何言うとるん、お釣りよこしんさい」
 「お釣りはいらんよね」
 「お釣りよこさないと降りんよ!」

 執拗なまでのチップ要求。

 「かぁちゃ〜ん、もうええよ〜降りようや〜〜」
 「バカ!黙っとりんさい。お釣りもらうまで降りられんの!!」
 「うぇ〜〜〜〜ん。こわいよ〜こわいよ〜こわいよ〜〜」

 いまだにタクシーに乗るのは気が重い。近場の行き先を告げるときはドキドキす
 る。そして、あんなに気丈だった母はすっかり弱ってしまった。


 安藤トロワー@会社勤めをしながら家事もこなす兼業主夫